Pride of Me 私たちが創る未来
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協賛企業 
広島駅弁当㈱
ヒロシマ復興・建築物許可「第一号」
原爆投下から18日目にして発表されたアメリカ軍の放送を、毎日新聞が報じた。「広島・長崎は今後70年間、草木はもちろん一切の生物は生息不可能である」と。ところがそれから2カ月を待たず、広島駅付近の焼け野原に「外食券食堂」なる本格的建物が登場した。建築主=広島駅弁当株式会社代表中島剛男。この記載は現在も広島県庁の倉庫に保管されている。戦時中軍用弁当を作っていた中島はこの混乱の中で…弁当会社をつくらねば…と思った。中島が頼んだのは周囲の下駄職人と大工ひとりの5人だった、とその職人のひとり向井春一は回想する。それにしても、「一切の生物は生息不可能」と言われた広島に、真っ先に社屋を再建し、営業を再開した、社長以下従業員に不安はなかったのか。そんな質問に未亡人である中島悦代は答えた。「そんな不安など考える余裕はなかったです。生きることに精一杯でしたから」。そして人々にかすかな希望を抱かせたもの、それは8月末より焼跡に生い茂る鉄道草。これこそが生命存続のあかしだった。駅前に築いた再生のきざし。小さな弁当屋が踏み出した〈小さな第一歩〉。それはやがて今日の国際平和文化都市へと至る原動力の“ひとつ”となった。

平成27年8月6日
平和記念式典 お弁当掛け紙より
広島県昭和二十年度
仮設建築物許可台帳
平成27年8月6日 平和祈念式典 お弁当掛け紙
荒野ヒロシマに建った家「第一号」
週刊新潮 ワイド特集 終戦三十五年の神話
「米国側に於ても、広島・長崎は今後七〇年間は、草木はもちろん一切の生物は棲息不可能であると、恐るべき事実を放送している」と、毎日新聞が報じたのが昭和二十年八月二十四日。ところが、その二ヵ月後には、早くも被爆地・ 広島の廃墟で、本格的な建物の第一号が着工されていた。

広島県庁の地下倉庫に、「昭和二十年度仮設建築物許可台帳」と表記された古い帳簿が一冊、保管されている。“仮設“といっても、いわゆるバラックではない。二十年度中はいちおう本格的建物でも、すべて仮設扱いにされていたという。
その第一ページ第一行目に、「一号 十月十二日 四十六坪、新築 広島市松原町六十八番一号 (用途) 外食券食堂 (建築主) 広島駅弁当株式会社代表中島剛男」の記載がある。
当の中島氏は十三年前に七十三歳で亡くなった。代って語るのは、同社の重役陣で、ただ一人当時を知る山岡好之助専務。「ヤミ市の屋台店やバラックばかりの当時としては、周辺でいちばん大きな建物じゃったでしょうな。平屋でしたが、中二階もありましてね。いまの目で見れば、天井むき出しの屋根裏部屋としかいえんでしょうが、国鉄の人が忘年会やマージャンによく使うてくれてました」
場所は広島駅前広場をほんの少し左に入った繁華街。同社は三十八年に新幹線口(旧駅裏)に社屋を移し、その跡地にはいま五階建ての貸ビルが建っている。それにしても十八年間使いつづけたのだから、がっちりした建物だったわけだ。廃墟の広島で、よくそれだけの建築ができたものである。
「戦争中は軍弁(軍用弁当)もやっていましてね。その関係で、軍から資材の無償払下げがあって、それでまず終戦五日目ぐらいには、東練兵場に二十四、五坪のバラックを建てたんです。その残りで、会社のアイスクリーム工場の焼跡にあの建物を建てたんです。ただ、市内には大工が見つからん。それで(中島)社長の疎開先の玖村(現広島市高陽町玖)に下駄職人が多かった関係で、その人たちに頼んだんです」
そのときの職人の中で、向井春一さん(76)は耳こそ遠くなったものの、いまも健在。
「中島さんが、どうでもこうでも弁当会社作らにゃならん、ここらの職人連れてきて建ててくれいいましてのう。うまいぐあいに、建築関係の仕事がないけん、わしらの仕事を手伝いに来よった大工が一人いましたんや。それで、その大工と五人で出かけたですわ」
市内はまだ、家族の消息を尋ね歩く人がぽつりぽつり通る程度で、人通りも少なかった。向井さんたちは建設用地近くの猿猴橋の上を仕事場に、本職の大工が墨を引いた材木を、下駄職人が切込みをしていった。畑違いにしては、かなりの仕事ぶりだったようである。
「そりゃ、わしら、鋸は引けるし、のみも使えるし、研ぐものもなんでも研げるしのう。三十日かかって建てましたんや」
手間賃は一日五円だったか、五十円だったか、向井さんの記憶ははっきりしないのだが、「その手間賃よりか、弁当屋行けば一日二食は向うで食えるけん、そのほうが魅力でのう。わしら、百姓もしとったが、それでも家族一人分の口を減らすことができるのは、大きかったもんですわ」
出される食事は大豆入りのご飯が多かったというのだが、それでもありがたい働き口だったという。同社の食糧の手持ちは、当時としてはかなり豊かだった。昭和十八年の企業統合で広島市内五軒の駅弁屋が一社になり、軍用弁当を一手に引き受けていたので、その材料を大量に支給されていたのである。
「東練兵場の倉庫に米を疎開させ、何十俵も積み上げてありました。だから、仕事の再開は早かったです」(山岡専務)
「怖いより、生きたい」
戦時中から同社の弁当調製にあたる山名静子さんによると、戦後の調製開始は敗戦五、六日目ぐらいからだ。
「会社の避難予定地だった東練兵場のテント住まいから、バラックができてすぐでした。軍が引き揚げるから弁当を作れというので、五升炊きぐらいの平釜で、薪で炊きました。ムズビ二個におかずは千切り大根と沢庵。それを薄板に包んで、ひもで結びましてね。ひもいうても、ちゃんとしたのじゃなく、薄板を細く割いたもの。それが戦後に弁当を作った最初でした。やっぱり、テント住まいのころは弁当作るどころじゃなかったです」
その軍用の材料を使った弁当が駅でも売られるようになるのは、秋になってからだった。駅前の松原町に移ったころで、一日にほそぼそと五、六十食を作っていた。
「列車の本数が一日に一、二本程度でしたしね。その上、デッキに鈴なりにぶら下っているような超満員列車でしょう。お客さんが弁当買いたい思うても買えませんもの。しかし、うちの弁当は、戦時中はイモを袋に入れて売ったことはあるけど、戦後はずっと米で通してきてます。 いちばん苦しいときに、軍用の材料でしのげたためですよ」
その弁当の値段、当初は五十銭だったそうだ。建築物許可台帳には「外食券食堂」とあるのに、実態は駅弁屋だった。食堂も兼営するようになるのは、一年後に増築してからだ。
「あのころは駅弁買うにも外食券が必要でしたから、それで便宜的に食堂にしたのでしょう」と山岡専務はいうのだが、中島社長亡きいまとなっては、その理由は明らかではない。
それにしても、「一切の生物は棲息不可能」といわれた広島に、真っ先に社屋を再建し、営業を再開したのだが、社長以下従業員に不安はなかったのか。中島氏の未亡人、悦子さん。
「そんなこと考えてる余裕はなかったと思います。生きることに精一杯でしたから」
広島市史編纂室長の小堺吉光氏によると、被爆者たちにかすかな希望を抱かせたのは八月末ごろから焼跡に生い茂り始めた鉄道草(ヒメムカシヨモギ)だ。生命の存在している証しだった。
「九月にアメリカの調査団が来たとき、中国新聞記者が鉄道草を例に出して、被爆地不毛説について質問すると、根拠のない愚説と明確に否定しています」
そういうこともあって、中島氏は社屋再建に踏み切ったのかもしれない。しかし、それでもその決断は異常に早かった。それから二ヵ月後の二十年暮、広島市議会は、郊外に避難したまま帰ろうとしない官庁や事業所に対し、早急に市内復帰を呼びかける決議文を採択している。
「広島の復興がほかの戦災都市と違うのは、周辺部から先に復興して、爆心地に近い中心部は遅れています。住民が全滅したことと、やはり放射能の不安からでしょう。駅周辺は、被害状況からいえば周辺部だし、人の集散もあるから、いちはやくヤミ市が生れて、復興も早かった。なにせ、中心部は二十三、四年ごろまで、人通りもあまりなかったですから」(小堺氏)
その駅前の復興の核の一つになったのが“弁当屋の建物“。
「それまでのヤミ市は露天の屋台。弁当屋ができてから、その周辺にバラックや旅館が建つようになったんです」
と向井さん。今日の“政令都市・広島”は、弁当屋から第一歩を踏み出したわけだ。

(週刊新潮 昭和55年8月21日号 28~30頁)
代表挨拶
私ども広島駅弁当グループは、1901年に広島駅構内での駅弁販売を祖業とし、百年以上にわたり、地域の皆様に育てていただき、地域とともに歩んでまいりました。
日本および広島は、この数十年で大きな転換期を迎え、少子化・高齢化など、様々な社会課題が顕在化しつつあります。
これまで地域の皆様に育てていただいた弊社グループは、その御恩を返すべく、食を通じて地域の社会課題を解決し、地域の皆様に必要とされ貢献する企業を目指してまいります。

広島駅弁当株式会社 代表取締役社長 中島和雄
広島駅弁当㈱
広島県広島市東区矢賀5丁目1-2
創業
1901年4月1日
電話番号
082-286-4339
WEB
https://ekibento.co.jp/
復興に尽力した企業に残る80年前からの資料を基に、広島在住のクリエイターの視点を介し復興を感じ取る場「Pride of Hiroshima」の展示を現地でご覧ください。
Divide the footprints of the era related to reconstruction into six categories Please take a look at the "Pride of Hiroshima" exhibition, a place where you can get a sense of the recovery through the perspective of creators living in Hiroshima, based on documents from 80 years ago that remain at companies that worked hard for the recovery.